ハイジの枕草子的備忘録

一介の女子大生がスイスからお届けします.

人間と、芸術と、引き続き言葉の話。

 先日、ずっと見なければと思っていた映画「君の名前で僕を読んで(原題:Call me by your name)」をついに観た。

 アカデミー賞にノミネートされたこの作品は、同性愛を題材としたラブストーリー。目を引くトピックなので、ネットを見る限りどうしても皆そこに焦点を当てがちだ。何を隠そう、わたしが見ようと思ったのもジェンダーへの関心がきっかけ。

    しかしいざ作品を見てみると、わたしの心に浮かんだのは、同性愛やジェンダーについてより、

「他人に対して真摯に向き合うこと、他者との交流を心から享受すること、というのは、なんて難しくそして美しいことなのか」

ということだ。

 実は、これはわたしがここ数年間、実践しようとしてきたことだった。根暗のわたしにはハードルの高いチャレンジだけど、客観的にはともかく主観的には明らかに効果が出ていて、「他者との交流の享受」がいかに楽しく喜ばしいことなのか、特に留学前はありがたいことに毎日のように感じていた。(楽しむと享受するが同じ単語で表せるのは、英語の最も優れた情緒表現のひとつだと思う。)

 

 では、「他者との交流」って具体的に何だろう、と考えたときに、よく小学校で言われる「言葉のキャッチボール」という言葉、もしかしてこれなんじゃないか?と思ったのだ。

 当時はあまりに安直な表現で好きではなかったのだけど、実はめちゃくちゃ的を射た言葉なのではないだろうか。

 

 キャッチボールという行為は、細分化すると投げる」と「キャッチする・受け止めるのたった二つの動作だけでできている。

 つまり、これらがいかにうまくできるかが、他者との交流を円滑にはかること、言い換えれば、「他者をどれだけ尊重できるか」なのではないか。という仮説だ。

 

 

 それでは、具体例を見ていこう。

 出だしからなんだが、最初は失敗例だ。主役は他でもないわたし、しかも日々起こる。

  わたしが滞在しているスイスのジュネーブはフランス語圏。しかし、わたしは大学でも独語選択で、フランス語は全くの駆け出しだ。

  公用語のわからない地域にすでに二ヶ月半も住んでいて、案外何とかなっているわけだが、当然困るときもある。

 大学で仏語を話す状況はほぼないが、住んでいれば道を聞かれたり、スーパーで話しかけられたりと「全くわからない言葉で滔々と話しかけられる」という状況がしばしば発生するのだ。

 これが本当に慣れなくて、あたふたとSorryを連発してしまう。すると、アアごめんね、と相手は何だか知った顔つきになって去っていく、これをもう数えられないくらい経験した。これだからアジア人は、とか思われてるんだろうな、とつらくなりながら帰宅する。

 

 さて、この一連を先ほどのキャッチボールに当てはめて考える

 話しかけてくる人間は、わたしに向かってボールを投げる行為が完了している。この場合、非は完全にわたしの方にあって、仏語ですらない言葉とジェスチャーのみで「わからない」ということだけを伝える、という無様な有りさまなわけだ。

 仏語ですらすら答えようとは言わずとも、これでは全くキャッチも投げ返しもできていない、いわゆる失敗例と言えるだろう。

 

 

 二つ目は、成功失敗は人それぞれ、その場合によりけりだが、普遍的にキャッチするのが難しい例だ。

 英語の訛り、というのは、世界中の人間が頭を悩ませる問題である。

 そして、わたしが今いる、世界でも稀に見る多人種国家のスイスでは、それが非常に顕在化して現れている。英語の発音や訛りについて考えない日はないくらい。

 

 スイスの公用語は主に独仏伊。まず、ドイツ語話者の英語は超綺麗だ。ドイツ語が母語の人は自分の言葉がいかに国外で話されないかをよく知っていて、皆まるでネイティブのように英語を話せる。(日本人も見習いたいところ!)

 問題は残りのフランス語、イタリア語。全く訛らない人も勿論たくさんいるが、そこそこの遭遇率で聞き取りづらい人に出会う。

 このわからなさを日本語の文章で伝えるのは無理難題だけど、仏語については少し頑張ってみる。分析したところ、フランス語には英語をうまく発音するのを阻害する特徴をいくつか持っていて、

①単語の末尾を読まない(許せない)②次の言葉と繋げて読む(リエゾン)③母音を基本的にそのまま発音する(chocoladeはショコラーデ、というように)

など。英語を話すときにもこれらの特徴を引きずってしまうようだ。althoughをアルソー、foreignをフォレインと言ったり、〜sationで終わる単語は全て「ザシオン」。なかなかにやりたい放題だ。極東の我々でさえゼイションくらい言えるぞ。

 

(実際聞きたい方がいたら、この動画の後半部は結構的確だと思います(米国内の差はよく知らないのでわかりませんが…)面白かったので是非。)

www.youtube.com

 

 わたしの生活の中で一番やばいのは、イタリア人教師の講義。そして、わたしが1週間のうちに話す人間の中には仏語話者以外にも、中国人、ロシア人やアフリカの地域語話者がいたり。皆さまざまな発音で同じ言語を話す。

 で、これに関して当然話題に上がることは多いわけだが、反応は様々だ。訛りを嫌悪したように話す人から、面白いよね〜程度の人まで。

 

 これをキャッチボールに当てはめるとすると、皆さんはどう考えますか?

 訛りが強くて理解しづらい英語、投げ手の力不足か、受け手のキャッチ力不足か。

 

 どっちでも言えると思うけど、これを投げ手の力不足、と言える人間は、よほど自分の英語が訛ってない自信があるのだな、とわたしは思ってしまう。

 むろん、自分に関しては訛りを矯正すべく努力すべきだけれども、他人にそれを求めるのは、個人的にはエエどうなの…と感じる。

 

 「投げようとしている意思」がある以上、それは「投げる」行為が完遂されたと見るべきだし、それこそが、他者を尊重すること、優しくあること、多様性を認めること、なのではないかと思うのだ。他者の尊重を前に"正しい"発音って必要なんだろうか?

 なんなら個人的には、「いろんな出自を持つ人々が、それぞれの発音で、同じ言語を話している」ということにエモさすら感じてきゅんとしてしまったりする。

 

 ということで、わたしはこれをキャッチ力不足と捉える覚悟を決め、イタリア人教師の授業は全て録音し、たまに聞き返すようになった。

 するとどうだろう、「あ、このフォレインはforeignなんじゃないか」と言った具合に、なんだかだんだんわかってくるのだ。慣れの力である。

 つまり、「キャッチ力が慣れによって磨かれた」ということだ。

 

 

 三つ目。日本の話。

 最近、ツイッターで回ってきた、「日本人が、日本語があまりうまくない外国人労働者に対して対応がひどい」という旨の記事を読んで、久しぶりに憤慨した。

 そもそも、日本語なんつーマイナーな言語を勉強してくれているだけで有難うございますではと言いたくなるが、「日本で働いているのだから当然」という一理あるカウンターが予測できるので、さっきのキャッチボール理論を当てはまることでもう一歩踏み込もうと思う。

(日本語をばかにしたいわけではないので註をつけるが、わたしはこれだけつらつらと日本語を書くのが楽しくて仕方なくて、バイトで現代文を教えていたくらいこの言語が好きだ。)

 

 さて、ここで外国人労働者の彼らは、拙いながらも日本人に対して日本語で言葉を投げかけている。これは完全に「投げる」行為の完了と見てよいし、日本語学習という前ステップからは日本への敬意さえ伺える

 ところがだ。ここで「店員の日本語が下手だ!」と怒り出す日本人の、なんと器の小さいことやら。ボールを受ける気すらない。ママが差し出した手を握らない、反抗期の幼稚園児レベルじゃないだろうか。相手の日本語が下手と見た途端タメ語になる人たちもまた同じ。

 しょうもない話だけど、まず「キャッチする気を起こす」というステップがあるのだな、と気が付いた例であった。

 でも、世間見渡すと意外と同じようなことが起こっている気がして、他人事じゃないなと思う。なんなら、逆はしばしばある。知り合いでもない若者にめちゃくちゃタメ語で話しかけてくるおじさん、ろくに投げる気ないですよね。

 

 

 歳を取ってもこうはなりたくないなあ、と自戒。

 帰国したら、最寄りのセブンで働いているベトナム人の店員さんに、もっとちゃんと笑って挨拶をしよう。

 

 

 最後の例は、言葉から離れてみたい

 ジュネーブ大学では11月に、Reading weekという名の「勉強のためのおやすみ」があったのだが、留学生にとっては絶好の旅行日和。そのとき出かけた、スイスのルツェルンという街で立ち寄った美術館での一幕である。

(ちょうど現在、あのとき勉強しておけば、と1000ページ以上積み重なったリーティングを見ながら後悔していたりするが、時すでに遅しだ。)

  

 ローゼンガルト・コレクションというその美術館は、ピカソと、パウル・クレーというスイス出身画家の絵を多量に展示していた。

 キュビズム画家の作品をまとめてみる機会もなかったので意気揚々と出向いたが、いざ大量のピカソ、クレー作品を目の前にすると、圧倒されるとともに、なんとも無力感に苛まれた

 ピカソはまだ、ご存知のとおりよくわからない線や色がたくさんあるが、一応どこが人間で、何を描いた作品かは理解できる。

 問題はクレー。

 見て頂ければ一目瞭然だが、何が何やらまじでわからん。

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クレーの作品(1929)

 いや、綺麗なんだけど。綺麗だけど、これはなんだ。

 まあ人生を振り返れば、キュビズムなんて明らかに守備範囲外。受験のときに理念と著名な画家を暗記しただけの知識。本物を目にすると、それがいかに生きた教養でないかを思い知った。

 初期から末期まで、1階分を埋め尽くすだけの作品群を見ても、あまりにも理解できる部分が少なくて。

 「芸術鑑賞は芸術家との対話、想像を膨らませることが大事」というのは好きな考え方ではあるのだけど。それでも、きっともっと事前に勉強していれば拾えたことがたくさんあったのだろう、と思うと悔しかった。

 

 さて、ぽろっと出したが、芸術鑑賞は芸術家との対話である、というのは、何処かで読んだ言葉だが、読書は作者との対話である、と同じくらい大切にしている。

 対話ということは当然キャッチボールであり、芸術家は人生を賭して作ったものを通じて、わたしたちに語りかけている、つまり、ボールを「投げて」きているのである。

 それをいかにキャッチするかは、(想像で補えるとはいえ)受け手であるわたしたちの能力値次第というわけだ。しかし、わたしはこのとき実力不足で見事おおかたキャッチに失敗したのである。

 これは結構わたしにとって鮮烈な経験だった。知識不足が原因で世界の解像度が下がるのがいかに悔しいかを知った。

 

 

 さて。幅広く話が広がってしまったわけだが、以上四つを踏まえた今日の結論は、「キャッチ力」は自分次第で上げられる、ということ。

 勉強をすれば、訛りに慣れれば、自分が理解できる範疇が増え、他者(時には時代を超えた…)とのキャッチボールの成功確率を上げられる

 このキャッチボールの成功は、すなわち「他者との交流の成立」、そして、ボールを投げてきた「相手を尊重すること、敬意を払うこと」を意味するのだ。

 つまり、学びによって自分の知識を増やし、考えを深めることは、他者との深い関わりと敬愛を形作ることと直結しているのである。

 実は、わたしは長いことこの二つを繋げて考えられずにいた。自分は根暗だから前者は得意だけど、後者は苦手、と分けて考えていた。でも、よくよく考えてみるとこの二つは大いに繋がっていて、これらの相乗効果で人生が豊かになっていくと思うのである。

 

 

 ここで冒頭の映画に話を戻そう。

 1983年夏、主人公のエリオは、北イタリアの避暑地で、大学教授である父のアシスタントとしてやってきた博士課程のオリヴァーと出会い惹かれあっていく、というのが大まかなストーリー。

 だが、この主人公のスペックを見てほしい。

 以下、wikipediaから引用。エリオは、アメリカの名門大学で教鞭をとるギリシャ・ローマ考古学の教授と、何ヶ国語も流暢に話す母親の一人息子だ。アカデミックな環境に育ったエリオは、他の同年代の子供に比べて、文学や古典に親しみ、翻訳(英語、イタリア語、フランス語を流暢に話す)や、音楽の編曲を趣味にする(ピアノとギターを弾く)など、成熟した知性豊かな子供に成長した。

 

 こんなのチートモードだ。

 学問、文学、芸術にたくさん触れることは、最後の絵の例とも通ずるけれど、その知識及び作品を作り上げた人物とのキャッチボール、ということができて、つまり、「過去の人類が積み上げてきた遺産を引き継ぐこと」と言い換えられる。

 

 基本的に自分ひとり分の人生しか生きられないわたしたちが、ひとり分以上に人生を豊かにしようと思ったら、

①今生きる他人と交流するか、

②過去の膨大な数の人類がそれぞれ人生かけて積み上げてきたものたちを享受するか、

この二択しかない。

 そして、これらによってキャッチ力は磨かれ、世界の解像度が上がっていくと思うのだ。

 

 そう考えると、この映画の主人公は生まれからキャッチ力の権化。作中、オリヴァーも「君が知らないことはあるのか?」とこぼす。

 登場人物たちの知己に富んだ会話を聞いていても、ああ、このふたりの関係性は両者の知性と教養あってこそなのだな、と感じて、なんだかまた悔しくなる。

 

 彼らみたいになりたいなんて贅沢は言わない。でも、世界の解像度を上げるために、他者とより深く関わるために、キャッチ力の幅を広げる努力を惜しみたくないなと思うのだ。

 

 もちろん映画の中で言及されたヘラクレイトスの破片やポッツィの詩を読んでみるのも良いのだけれど、多分今のわたしにはハードルが高い。

 そこで。先ずは、イタリア人とロシア人の英語をたくさん聞いて慣れること。

 そして、フランス人に話しかけられたとき、せめてフランス語で「ごめんなさい」を伝えること。かろうじてでも投げ返すこと、ここから始めたい。Désolé, je ne parle pas français.と何度も練習をして。

 こんな一歩でもよいと思うのだ、あまりにも小さいけれど。小さすぎて、もはや祈りのような。でも、きっといつかこの一歩の積み重ねが、より豊かであったかい他者との関係性を享受できるように、それによって人生をより楽しめるように、してくれると思うのです。関係性も人生もエンジョイするために、ジャパニーズイングリッシュだって堂々と話して、毎日努めていきたいなと思っている。

 皆さんもよかったら是非キャッチ力を広げる」意識で、毎日何かしらやってみてください。優しい世界を作っていきましょう。

 大好きな作家が、愛は祈りだ、僕は祈る、なんて言っていましたが、これがわたしの祈りなのかもしれないなあと思う、またまた明け方です。